太田至教授の「指導」を振り返って

大門 碧

ナイロビでの出来事

 ケニアの首都、ナイロビの日暮れ時、午後7時に近い時間だったと思う。劇場周辺にたむろしていた人びとの話を聞いた後、「タクシーを使ったほうがいい、暗くなると強盗とか出るから。なんなら自分の車に乗せてあげようか」と言われたにもかかわらず、私は徒歩を選んだ。よく知らない人の車に乗るほうがこわい。まだそこまで暗くもない。歩いてすぐそこの距離。タクシーやマタトゥを探すほうが面倒だし、金がかかる。うん、歩こう、大丈夫だ、と。まったくの油断だった。

 自分の体が宙に浮いたときのことは、今でも底知れない恐怖と一緒によく覚えている。数人の男たちが私の体を荷物ごと持ち上げていると気づいたときには、持っていた荷物がなくなっていた。靴も携帯電話もあっという間に。男たちが走り去ったとき、自分の足がどうしようもなく震えていることに気づいた。

 この出来事が起きたのは、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科アフリカ地域研究専攻(以下、「アフリカセンター」)に翌月入学が決まっていた3月のことだった。ナイロビ滞在時にお世話になった、当時の日本学術振興会ナイロビ研究連絡センターのセンター長、波佐間逸博氏からすでに事情を聞いていた太田至先生の研究室を訪ねると、開口一番、「俺が代わりにケニアのやつらを憎んでやるから」と言われた。当時、太田さんに心配をかけていると思う申し訳なさから、自分は平気だと装おうと必死だった私にとって、この言葉は予想外のものでうまく理解できず記憶に残った。

調査地の変更

 アフリカセンターに入った院生は、講義を受ける一方で、自分の調査計画を立て始める。そのさい、調査地をどこにするかは、決定すべき重要項目のひとつだ。私は、学部時代からスワヒリ語を学んでいたこと、また実際に何度か訪問したことがあることから、ケニアを選び、都市の演劇活動に興味があったことからナイロビを選び、3月に予備調査を実施していた。アフリカセンターに入学後も、調査地をナイロビと決め、予備調査で手に入れた情報をもとに調査計画を立てていた。調査地域が同じケニアであることと、話しやすい人柄に惹かれ、太田さんに指導教員になってもらい、調査計画について何度か面談を受けた。太田さんは、「ナイロビは危ないから止めておけ」とは言わなかった。しかし何度目かの面談のさい、私はナイロビを調査地にしたいという思いとは別に、自分の目から勝手にあふれてくる涙に困っていた。そのとき太田さんは「脅えながら調査はできないぞ」とはっきりと口にした。そして「別の場所に3ヶ月もいれば、ナイロビよりもずっとお前はそこに詳しくなれるぞ」と、はじめて調査地を変えることを私に勧めた。

 改めてどうして調査地をナイロビにしたいのかを自分に問いかけると、それはスワヒリ語が使えることやすでに知り合いがいること、「アフリカの都市といえばナイロビ!」といういわばアフリカの「聖地」で調査をしてみたいという野心のほかに、あんなことのせいでナイロビから逃げる臆病者になりたくない、ナイロビで調査を続けることであのとき起こったことを克服したいという、自分を責め立てる気持ちがあることに気づいた。そうやって自分を叱咤するばかりで、実のところナイロビで調査するイメージを具体的に抱けないでいた。太田さんの言葉を受けた瞬間、ようやく納得した。まだ私は怖いのだ。無理だ、足を震わせながら調査はできない。逃げよう、そうだ逃げてもいいのだ。

 それから数ヵ月後、私はウガンダの首都カンパラを闊歩していた。いつも頭のどこかで、危険を呼び寄せないように気を配り、危険を感じたらそれを避け、調査よりも安全を優先するように全力を尽くした。そうしてそれなりにカンパラという土地になじみ、何度も足を運ぶようになったころ、カンパラで調査を始めていた後輩のひとりが急遽帰国した。実際は本人の健康問題で帰国したのだが、当時詳細を知らなかった私は、その後輩がウガンダで強盗に脅されて怖い目にでもあったのではないかと疑った。そのとき全身の血が引き、もしそうだとしたら、「私が全力でそいつらを憎んでやる」と思った。それまでウガンダで酸いも甘いもさまざまな経験をしながらも、ウガンダの人びとから力をもらってきたからこそ、その思い出とウガンダ人たちへの信頼をぶちこわしたそいつらを心底憎む気持ちが沸いた。そのとき、太田さんのあのときと同じ言葉が自分のなかによみがえったのだ。そして理解した。自分が当時、周囲へ迷惑をかけたと反省ばかりで、強盗を働いた男たちに腹を立てたり、恨んだりすることもできない精神状態に陥っていたことを。しかしいつのまにか私は、きちんと怒りを感じられる人間に戻っていたようだ。あのとき太田さんは、私の精神状態を把握し、あの出来事は憎むべきことであり自分自身を責めることではないと言おうとしてくれていたんだろうか。

カンパラでの調査

 それにしても太田さんは一度も、夜に動き回る調査をするなと私に言わなかった。私は調査対象をレストランやバーで夜間にショーをおこなうパフォーマーに定めてからというもの、本当に自分でも馬鹿じゃないかと思うくらい、夜な夜な遅くまでパフォーマーたちとともに行動し、滞在先に戻るのは夜中の0時を過ぎるのが当たり前だった。私の調査状況を聞いていれば、真夜中に外出していることは察知できるだろうに、太田さんはまったく心配する様子を見せることもなく、私の「調査地」に来てくれた。

 まだ私が調査を始めて間もないころ、太田さんはタクシー1台を一晩中つき合わせて、私と一緒に4軒ほど続けてバーをまわり、各バーでショーを見ては隣にいる私にあれこれ質問しつつビールを飲み続けていた。「おもしろいなあ、でもこれどうやって調査するんだ」とつぶやいたり、「おまえ、よくこんなところで調査ができるな(俺だったらビールを飲んでしまう、の意味)」と赤ら顔で感心してくれた。私がパフォーマーたちとそれなりに仲良くなってきた長期調査の途中で来てくれたこともあった。太田さんはそこにいたパフォーマーたち全員にビールをおごった。そんな太田さんにお礼を言おうとするパフォーマーたちの列が太田さんの前にでき、お礼をきちんと表現するブガンダ文化に慣れていない太田さんはとまどっていた。そしてそのお礼をしたパフォーマーたちが披露するショーの最中に太田さんは居眠りを始めたのだった。その後、私自身もパフォーマーとして踊るようになったころ、太田さんがまたショーを見たいと言うのでふたたび案内した。私がパフォーマンスする姿を、ビールを空けながら照れ笑いのようなものを浮かべて見ていたのもつかの間、やっぱりすぐに船をこいでいた太田さん。そんなことばかりが思い出される。

 もちろんカンパラの盛り場でよりずっと多くの時間を京都の太田さんの研究室で、パフォーマーたちのことについてあれこれと話して過ごした。しかしそのときも私の調査する時間帯を憂慮する言葉はひとことも発せられなかった。しかし、先輩、同輩、後輩の普段の生活や調査の状況について、太田さんが親身に気にかけている様子を見てきたことを思い返せば、私はきっと最初からあぶなっかしい心配の種だったのではないかと思っている。

 博士論文執筆計画の面談のさいに、子どもを妊娠していることを告げると、太田さんはまるで芝居でもしているかのように頭を抱え、「それは青天の霹靂やな!」と言った。その晴天の霹靂の娘ももう小学1年生になる。太田さんは、もうアフリカセンターを退職される。感謝の念に堪えないが、私が太田さんに一番感謝しているのは、あのナイロビでの出来事のあとも、私がアフリカの人びととの間にたくさんの信頼関係を築く過程を、静かに見守り支えてきてくれたことである。ただ単に放任されていたような、はたまたしっかりと私のことを信頼してくれていたような。この距離のおき方は、親でも友人でも、ましてや恋人でもできないことだと思う。太田さんは、そう、いつまでも私の「指導教員」である。