太田さんが開いてくれた新しい地平

高橋 基樹

一本の電話

 それは、2015年7月のある夜のことでした。
 季節は盛夏に向かい、暑さが日を追うごとに増していました。私はその少し前、心臓を急に患って入院し、その後自宅で療養をしていたのです。それまで病気で入院したことなどなく、自分の体力にはむやみに自信を持っていた私にとって、急病で死に瀕したことはかなりのショックでした。そのあまり、生き方を変えて仕事を減らし、草花を愛でながら、静かな余生を送ろうかなどとも考え始めていました。他方で、そうすると、仕事だけが生きがいで、のめり込める趣味の一つもない自分はただ衰えていき、日々の陰鬱のなかに沈んでいってしまうかもと思いあぐねてもいました。病で傷んだ身体の不安もあり、悶々とする療養の毎日だったのです。

 そこへ一本の電話がかかってきました。太田至さんからでした。太田さんから自宅に電話をもらうのは初めてのことでした。太田さんがリーダーで私も参加している研究プロジェクト(後で述べる「アフリカ潜在力」研究プロジェクト)のことで入院のために迷惑でもかけたかなといぶかしく思いながら聞くと、なんと京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科―ASAFASに是非移ってきてほしいとのことです。まったく予想していないことで、青天の霹靂としか言いようがありませんでした。

 正直、この電話は弱った心臓によくありませんでした。ちょうど20年勤めた神戸大学大学院国際協力研究科には強い愛着がありましたし、また何人かの学生を指導しており、彼ら・彼女らへの責任を果たせなくなることは、何よりも耐えがたいことでした。元々の専門分野がASAFASの教員の皆さんとは大きく異なる自分が、大病した身体で、ASAFASに移ってやっていけるのかも、不安に感じました。

 他方で、既に太田さんには私の病気のことは伝えてあり、それを承知のうえでASAFASに来いと誘ってくれたことにはとても感激しました。何といっても京都大学は、日本のアフリカ研究を牽引し、優秀な人材を輩出してきましたし、ASAFASはその核です。ですから、誘いを頂いたことは、一アフリカ研究者としてはとても名誉なことです。また、実は私は入院の数年前から、自分の研究・教育のあり方に限界を感じ始めており、それが患いの一因とも思えるのですが、太田さんのお誘いはその限界を超えるための良い転機になるかもしれないとも思ったのです。

深まった太田さんへの尊敬と信頼

 神戸から京都に移るべきか、ますます増していく暑さのなかで、懊悩は深まっていきました。その懊悩から私を最終的に救ってくださったのも太田さんでした。大病をした後の私の悩みやためらいも、柔らかくしかし真摯に受け止めてくれ、従来のASAFASと私との専門の違いなどについても不安に思う必要はない、と励ましてくれました。その他、恐らくは私の不安から生じたであろう、些細な問い合わせにも細やかに返答してくれたのです。

 加えて、神戸大学での教育の責任を果たすためにお願いした、2年間のクロス・アポイントメント(両大学での兼任)についても、快く応じてくれました。国立大学間でのクロス・アポイントメントは、この制度ができて間もないこともあって最初の例の一つだったのではないかと思います。ですから、ASAFAS内部での納得を得て手続きを進めるのは恐らく非常に煩わしかっただろうことは、推して知るべしです。しかし、太田さんは面倒さを少しも感じさせずに処理をしてくださいました。それまでに、後段で述べるような事情で私は太田さんのことを尊敬し、信頼するようになっていましたが、京大に移るプロセスでの太田さんの配慮にあふれた対応で、私の尊敬と信頼はより深まりました。

 神大から京大へ移るという私にとって難しい決断をするのには、いろいろな理由や動機がありましたが、最後の決め手になったのは、太田さんへの尊敬と信頼であったと言っても言い過ぎではありません。

アフリカ研究者の間の冷戦構造?

 さて、手前味噌だとの批判をあえて覚悟のうえで言うと、私がASAFASで働くことは、少しばかり画期的なことだったのではないかと思っています。以下にその背景を説明することで、何故私が太田さんのことを尊敬し、信頼するようになったのかを、理解して頂けるのではないかと思います。

 私のように、アフリカの国家と政治経済(political economy)への関心を出発点とし、アフリカの開発の支援は必要だと考え、そのために日本の援助政策について発言し、また実際の援助活動にも関わって来た人間は、当初、京都大学の人びとは遠くにあって近寄りがたく、対話をすることが少々難しい相手だと感じていました。実際、私がアフリカ学会に顔を出し始めた1990年代の前半にはアフリカの開発を熱心に議論する人びとと、人類学、社会学、文化研究にいそしむ人びとの間には、対話がほとんどなかったように思われます。

 この両者の冷戦(?誇張しすぎでしょうか)あるいは疎隔の原因は、私ごときが説明することではないと思いますが、学術分野ごとの、前提とする立場・視点の違い(伝統的なハードコアの社会科学と人文科学、文化絶対主義と文化相対主義、マクロとミクロ、国家と個人などなど)があったことは間違いありません。
京都大学を中心とする人類学、社会学などの人びとにしてみれば、1990年代までの開発主義者の議論は、先進国の経済的豊かさ、あるいは資本主義的社会のあり方をアフリカに押し付けようとする傲慢なもので、在来のアフリカ諸社会の固有の論理、知恵やすばらしさを無視するもののように映っていたものと思います。それは、冷戦下で東西両陣営の戦略や利益のために開発援助が行われていたことを考えれば無理のないことだったのかもしれません。

 一方、私のような開発研究者にしてみれば、上のような考えはずいぶんと時代錯誤だし、アフリカに現実に起こっている飢餓、貧困、人権の抑圧、紛争などを直視せず、また実際に開発を語っており、これから開発の主人公となりえるアフリカの人びとの大きな可能性に目をつぶるもののように思えたのです。

開発をめぐる変化と開発主義者の反省

 21世紀になると、こうした不幸な二項対立は徐々に融解し始めていったように思います。アフリカのどこの国に行っても、マスメディアは毎日のように開発を議論していますし、大雑把に言えば、平和な諸国では開発プロジェクトが行われない国の方が珍しくなっていきました。同時に、普通の人びとを巻き込む紛争や暴力が広がっている現実もありました。人類学や社会学にいそしむ人びともそうした状況に問題意識を強く持ったものと思います。

 他方で、開発主義者の私たちも、アフリカの人びとの暮らしや思いを学び、尊重しないでいては、かえって問題を多く生み出してしまうことに遅ればせながら気が付いていきました。
 
 私個人は、京都大学の研究者の現代アフリカ社会についての研究を謙虚に読み返してみて、自分たちのよかれと思う価値観やアプローチだけでは、アフリカの状況に迫りえないし、ミクロの次元も含めてアフリカの現実に向き合い、自らの開発への考え方を鍛えなおしていかなければならないと思うようになりました。そして、アフリカ諸国の経済の高度成長が始まり、日本及び先進国の関心が徐々にアフリカの貧困や飢餓から離れていく状況のなかで、むしろ改めて人びとの暮らしを学ばなければならないと思い、自ら村や町の庶民の暮らす場に足を向けはじめました。それとともに、かつての冷戦構造を超えて京都大学をはじめ、専門の異なる人類学や社会学の方々との間にもっと対話があってほしいと願うようになったのです。

「アフリカ潜在力」研究プロジェクトと太田さんのリーダーシップ

 私の願いは京都大学を含む他の皆さんにも通じたのか、2000年代の後半から、立場や専門の違いを超え、アフリカ研究者が力を合わせて共通のテーマに取り組んでいこうとする試みが相次いで行われてきました。しかし、背景とする学問の出発点の違いや観点・アプローチの隔たりを超えることはなかなか容易ではありませんでした。そうしたなかで、最も大きな一歩となったのが、2011年度から2015年度まで行われた「アフリカ潜在力」研究プロジェクト(「アフリカの潜在力を活用した紛争解決と共生の実現に関する総合的地域研究」科学研究費補助金 基盤研究(S))であったと思います。この研究にはASAFASを中心とする京都大学とそれ以外の学術機関から多くのアフリカ研究者が参加しました。参加者の専門は文化人類学、農学、地理学、野生生物研究などから政治学、経済学まで、実に多様でした。おそらくこれほど多数で多様なアフリカ研究者が結集した共同研究プロジェクトはかつてなかったのではないかと思います。そして、その中心が京大のアフリカ地域研究資料センター及びASAFASでしたし、リーダーを務めたのが太田さんでした。

 この「アフリカ潜在力」研究プロジェクトの最初から、太田さんのリーダーとしての手腕は水際立っていました。研究期間の5年間をあらかじめ見通して、その間に何をいつまでに実行・達成しなければならないかを、個々のメンバーに明確に示してくれました。その組織性、計画性は見事という他なく、後からついていく者として、太田さんのことを実に頼もしい人だと感じ入りました。余計ごとを一言いわせてもらうと、それまでの私の京大系の人類学者の皆さんに対する印象は、アフリカの大らかさをそのまま体現したようなものでした。つまり、期限・締切というものについては融通無碍で、お金その他のリソースの管理や配分も、とても「柔軟に」しているものとのイメージを持っていたのです。そのイメージを、太田さんは見事に崩してくれました。

 私が太田さんに対して尊敬と信頼を持つようになったのは、太田さんの研究プロジェクトの運営上の手腕だけが理由ではありません。上記の「アフリカ潜在力」プロジェクトは、冷戦終焉以降のアフリカにおける紛争の大衆化、深刻化という問題に向き合い、アフリカの人びと自身の解決に向けた潜在力を論じようとするものでした。それはアフリカの人たちには大きな可能性があり、それを見つめていくべきだという私の考えとも一致していました。そして、研究を担う班のなかに開発・経済班が設置されていました。いよいよ、アフリカ地域研究者の学問分野の違いを超えた対話が本格的に始まり、その一つの論題として「開発」が取り上げられるのだと実にうれしく思いました。

 「アフリカ潜在力」研究プロジェクトが実施された5年間は、私にとってアフリカを学ぶ開発研究者として、とても充実したものになりました。こうした環境に身を置けたことは、まずもって優れたリーダーであった太田さんのおかげだったと思います。ただ、京大をはじめとする他の皆さんの研究上の知見をよりたくさん知るにつれ、ますます自分の開発についての考え方が、アフリカの現実の中で問い直されるべきではないか、との思いが強まりました。冒頭に述べたASAFASへの誘いと並んで真っ先に私が太田さんに感謝すべきことは、そうした自省を強く促す「アフリカ潜在力」プロジェクトという学びの場を与えてくれたことだと思っています。他方で、アフリカの現実に向き合わなければならないという思いは、太田さんから電話をもらったときに抱えていた、教育研究上の悩みの一因にもなっていたのです。

 「アフリカ潜在力」研究プロジェクトは、太田さんの責任編集のもと、それぞれ厚みのある5巻のシリーズを出版するという大きな成果をあげ、日本のアフリカ研究史に金字塔を打ち立てることとなりました。私の太田さんの尊敬と信頼がどこから来たのかということもある程度お分かりいただけたのではないかと思います。

太田さんの同僚として

 私は「アフリカ潜在力」プロジェクトに入れていただいただけである意味満足でしたから、太田さんからのASAFASへの誘いは、すでに述べたように晴天の霹靂でした。私という開発主義者の異分子を仲間にすることは、太田さんはじめASAFASの皆さんにとってはもっと大変なことだったのではないかと思います。研究プロジェクトを共にするのと、同じ研究科の同僚にするのとは次元が大きく違います。過去の方向性の違いをも考えると、太田さんたちが私を選んだことにはそれなりに覚悟のいることだったのではないかと思います。そのように考えると感謝しかありませんし、果たして自分でよかったのだろうかと今でも恐縮しつつ自問してしまいます。ですが、自分としては、太田さんが7月の暑い日に電話をくれたことで開けた新しい地平を目指しながら、開発をアフリカの現実の中で問い直すことを続けていきたいと思っています。そして、開発主義者と開発に疑問を持つ研究者の双方が、たとえ立場を異にしていようとお互いにアフリカの現実を踏まえながら、切磋琢磨しつつ、それぞれの考えを陶冶していける状況を作り出していくことに微力を尽くしたいと思っています。

 年をとってからの転籍で慣れないこと、至らないことも多く、太田さんには心配ばかりかけていると思いますが、期待されたものにいくばくかお応えすることで、恩返しができればと願っています。他方で、私自身はASAFASに移り、同僚の教員や院生の皆さんのアフリカの現状を踏まえた研究に接してとても刺激的な毎日を送ることができています。太田さんの勧めにしたがって移ってきたことを現在はよかったな、と感じていますし、なおさら太田さんに感謝せざるを得ません。軽々しく口にすることはできませんが、アフリカで日々展開しつつある開発をどのようにとらえたらよいのか、どのように自分の立ち位置を据えればよいのか、そこはかとなく見えてきたような気がします。太田さんのおかげです。

 太田さんにはいつまでもお元気で、現役として活躍いただくことを願っております。