人生の岐路と赤ペン、そして笑い声

大山 修一

 1992年12月、わたしは下阿達町46の敷地の入り口にいた。左に行けば、東南アジア研究センター、右に行けばアフリカ地域研究センターだった。わたしは当時、慶應義塾大学の3年生で、院試を受けるために研究室訪問をしようとしていた。第一外国語で学んだマレー・インドネシア語を使うのなら左へ行く、長年にわたり夢見てきたアフリカを研究対象とするのなら右に行く。人間・環境学研究科の募集要項を手にしながら、左に行くか、右へ行くのか、どっちに行くのか判断しかね、迷っていた。

 わたしはその9か月前、3月31日に帰省していた奈良の実家で新聞の夕刊をみていて、京都大学が飛び級制を導入するという記事を読んでいた。願書の受け付けは4月2日から8日までとなっていた。まだ、2年生が終わったばかりだったから、すぐには出願できなかった。東京では勉学のほか、マリの砂漠緑化に取り組むNGOで封筒づくりや古切手をはがす作業をし、資金づくりのお手伝いをしたり、難民の講演会へ行ったり、ときには老人ホームでボランティア、サークルでソフトボールをしながら、8月にはマラヤ大学へマレー語の研修に出かけた。バブル経済の余韻が残るなか、楽しく、有意義な時間だった。

 けっきょく、わたしは右に曲がり、歩いていった。さいしょに訪ねたのは、太田さんの部屋であった。踏むたびにきしむ急な階段を上ったあと、左に曲がり、突き当たりの右手にその部屋があった。院生か、研修員がいて、太田さんはタバコを吸いながら楽しそうに話をしていた。古びた建物にガス・ストーブ、吸い殻のたまった灰皿、タバコを吸う教官と学生が談笑しているという、クラシックな大学の雰囲気を感じた。わたしが椅子に座り、会話が途切れるのを待っていると、太田さんは「君、なにしたいんや?」と聞いてきた。わたしは、「リモートセンシング(衛星画像の解析)で、森林のモニタリングをしたい」というようなことを答えた。太田さんは、「そうか。わかった。俺じゃない。廊下をへだてた、あの部屋へ行きなさい」と指を差した。太田さんとの会話はそれだけ、あっけなかった。太田さんの指先にあったのが、掛谷誠さんの部屋だった。掛谷さんと話をしたあとで、その隣の部屋にいた高村泰雄さんと話をし、合格した場合の指導教員を承諾してもらった。

 1993年2月に院試を受け、その4月に入学した。同級生は4人で、そのうち1人は理学研究科の受け入れだった。月曜日の17時からスワヒリ語の勉強会、火曜日16時30分から農学ゼミでの輪読、木曜日10時30分からのリレー講義、13時30分からの木曜ゼミ、そして東南研や農学研究科、人間・環境学研究科が提供する大学院むけ授業を各1コマ、合計8コマほどを受けるという、ゆったりとした時間割だった。初年度に太田さんの話を聞いたのは、木曜2限のリレー講義で1コマ、そして木曜ゼミでの発表だけだった。そのゼミの発表タイトルは、『男性と去勢オスの「アイデンティフィケーション」と家畜の所有権』だった。

 太田さんは16時ころにセンターへ来て、夜遅くまで研究室にいることが多かった。21時ころになると、いや、19時すぎだったかもしれない、ゼミ室にウィスキーを持ち出し、飲むこともあり、今では考えられないほど、ゆったりとしていた。わたしがザンビアへ渡航するときには、パキスタン航空を使ってカラチ、ナイロビを経由してルサカへ向かった。途中のナイロビでは、太田さんはじめ牧畜民の研究者たちが楽しそうに、寄宿先のホテルでタバコを吸いながら、酒を飲んでいたのをうらやましく思ったこともある。

 1995年1月20日(金)が修士論文の締め切りだった。わたしは文章を書くのは早く、11月末には初稿が仕上がっていたが、文章はものすごくひどかった。掛谷さんも、高村さんも、そんなわたしのひどく、雑な原稿を読むのを嫌ったのであろう。掛谷さんは修士論文の論旨をあらまし理解したのち、太田さんにわたしの文章を修正するよう依頼されたのだと思う。ザンビアのミオンボ林帯におけるリモートセンシングや植生調査がわたしの論文の内容であった。太田さんは副指導教員でもなかった。ランドサットやフォルスカラー、NDVIなど、多くの専門用語は太田さんにとって馴染みがなかったにちがいない。しかし、太田さんはわたしと原稿に向き合い、逐次、説明を求めながら、ていねいに朱を入れていった。当時、変更履歴などはなく、すべて紙に赤ペンであった。太田さんののびやかな字で、コメントと修正がびっしり書かれた。わたしの修士論文は、提出にむけて動き出した。

 1995年1月17日には阪神大震災が発生した。京都も大きく揺れ、共同棟の壁にはひびが入った。その前日に、わたしの祖父が亡くなり、朝5時46分には実家でろうそくの火のお守りをしながら、東芝ルポというワープロを打っていた。地震でろうそくが倒れそうになり、あやうく火事になるところだった。近鉄電車や京阪電車、JRも、奈良から京都へ向かう電車は動かなかった。わたしは大きく動揺した。近所の公衆電話から太田さんに電話し、「地震による締め切りの救済措置もあるだろうから、心配しないでいい」と聞き、安心したことを鮮明に覚えている。葬儀が終了し、電車を乗り継ぎ、1月20日(金)の16時45分に、なんとか修士論文を提出できた。

 このときに太田さんから受けた指導を手本にし、わたしはその後、真似るようになった。東京都立大学理学研究科へ就職し、わたしが1999年に知らないフィールド、馴染みのない分野の学生を相手にするときには、まずその論文をしっかり読み、対面で話を聞きながら、朱を入れ添削することを習慣とした。当時、太田さんはこの添削を快くやってくれたが、かなりの時間と労力、そして忍耐力が必要であった。太田さんのように、豪快さやほがらかさ、そして絶えない笑いとある種のひつこさ、細かさを、わたしは持ち得ないが、ASAFASに着任してからも、このスタンスをなるべく続けるように努めてきた。研究内容がちがっても、教員による学生指導の方法は再生産されるものである。月日のはやさを嘆くとともに、感謝の気持ちを忘れることなく、日々の仕事に励んでいきたいと思っている。