トゥルカナのプロフェッサーと不良たち

佐川 徹

 私がはじめてエチオピアの牧畜社会を訪れたのは2001年である。その年の2月27日、太田さんと私、そして道案内役を務めてくれたニャンガトムの高校生ロカーレイ君の三人は、西南部の町ジンカから牧畜民がくらす乾いた地へ向けて出発した。ロカーレイ君は英語がよくできたが、ハンドルを握る太田さんとはトゥルカナ語/ニャンガトム語でも話をしていた。ケニア国境を挟んで隣接するトゥルカナとニャンガトムの言語は同じ系統に属するため、二人はある程度の会話ができたのである。「ロカーレイ」とはニャンガトム語で「子ヤギ」を意味するらしい。名前が喚起するイメージとは異なるいかつい風貌だったが、笑みを浮かべたときの表情がいかにも人懐っこい。そのギャップが彼の魅力だった。

 私たちは、まずニャンガトムがくらす町であるカンガッテンとキビッシュに行き、次にダサネッチの町オモラテへ向かった。そこでロカーレイ君が、当時まだ10歳前後だったダサネッチの友人アブタ君を車に乗せてから、ダサネッチの集落を訪ねた。アブタ君は、まじめに小学校へ通っていたらクラスの人気者になったであろう快活な少年だった。3月5日、太田さんとロカーレイ君はジンカへ戻り、私はダサネッチの地で調査をはじめた。

 ロカーレイ君やアブタ君とは2001年以後の調査時にもよく顔を合わせた。とくに二人がそろったときには、必ず「トゥルカナのプロフェッサー」こと太田さんの話題がでた。太田さんと過ごしたのはロカーレイ君が7日、アブタ君は1日半だけだったが、彼らには太田さんの二つの行動がつよく印象に残ったようである。一つは、家畜群が進路を妨げても太田さんが静かに車を運転していたことだ。それまでに彼らが乗った車では、エチオピア高地人の運転手が家畜群へクラクションを鳴らし続け、窓を開けて牧夫に悪態をついた。ロカーレイ君によれば、家畜はクラクションなど気にしないのだから、高地人の行動には「自分は牧畜民が嫌いだ」と表明している以上の意味はない。一方の太田さんは、ハンドルを小刻みに左右へふりながらゆっくりと家畜群のなかへ分けいり、ヤギが跳ね返りしたときにだけ「おーっと」とユーモラスな声をあげたという。「トゥルカナのプロフェッサー」は、さすがに家畜のことをよく知りその動きを楽しんでいた、と二人は語った。

 もう一つは太田さんの「不良」(アムハラ語でドゥリエ)っぷりだ。オモラテに到着した日、私たちは警察署のコンパウンド内にテントを張った。二人によると、太田さんは明るいうちからウィスキーらしきものを飲みはじめ、タバコもよく吸っていたという (1)。高地人の横柄な警察官が多い署の敷地内は、もっともお行儀よくしなければならないと地元民が考えている空間である。そのため、若い二人はとても緊張していたらしい。そんな彼らにとって、警察官の近くでも萎縮せずに酒とタバコを楽しむ「トゥルカナのプロフェッサー」の自由なふるまいは、少し危なっかしく映り、同時に痛快に思えたのである。

 太田さんについて二人が語る内容には、ダサネッチの(そしておそらくニャンガトムの)トゥルカナ観が色濃く反映しているのがおもしろい。ダサネッチによれば、トゥルカナは小家畜を多く持ちその管理に長けた人たちである。またトゥルカナは粗野なふるまいをするが、大胆で物おじせず、何事かを成し遂げることができる人たちだという。ダサネッチが「トゥルカナのやつらは〇〇だ」と話す際、一方では呆れが、他方では憧憬の念が含まれているように私は感じる。誤解を招かないように記しておくと、私はトゥルカナの行動が実際に大胆なのかどうかは知らないし、太田さんは粗野どころかとても繊細な心遣いをしてくださる方だということを2001年の旅路で感じた。おそらくロカーレイ君やアブタ君は、「トゥルカナ語を話す白人、家畜を知るよそ者」という既存の集団範疇には合致しない太田さんの行動を、もともとトゥルカナに対して抱いていたイメージに重ねあわせながら観察し、記憶することで、短い時間をともにしただけの太田さんを身近な存在として捉えるようになったのだろう。太田さんについて話す彼らはとても楽しそうだった。

 ロカーレイ君は高校卒業後、キビッシュの小学校の教員になった。彼と私は2006年にボラナの地で開かれた世界牧畜民会議に参加し、1週間にわたり充実した経験をともにした。会議のあと、ロカーレイ君は地域機構とNGOに職を得た。高地の町へ出張することが増え私と会う機会もなくなった。2009年、彼を知るニャンガトムは「あいつは突然多くのカネを手にして、酒と女に溺れる『不良』になりつつある」と心配していた。ロカーレイ君が亡くなったという話を聞いたのは2011年である。地域機構の職を解かれたため、仕事を求めて独立前の南スーダンを訪問していた際に客死したのだという。

 アブタ君のほうは、持ち前の快活さを活かしてオモラテで観光ガイドのリーダー的な役割を果たすようになった。町の住民からは、白人から稼いだカネを酒とタバコ、チャットに浪費する「不良」だと見なされていた。そんなアブタ君が、「父が老いたので自分が家畜を管理しなければならない、もう町を去る」と言い残して国境を越えたケニアの牧野へ向かったと、彼のガイド仲間が教えてくれたのも2011年だった。

 2013年、買物のために家畜キャンプからオモラテに来ていたアブタ君と4年ぶりに再会した。例によって太田さんの「不良話」がでたので、「プロフェッサーはしばらくまえにタバコはやめたはずだし、酒の量も減らしているようだ」と話した。アブタ君は何度もうなずきながら、「ぼくもタバコはやめた。酒は町へ来たときにだけ飲むことにした。飲んでばかりいてはなにも残らない。自分のことは自分でしっかりと考えなければいけない」と珍しく真剣な口調で語り、「カネと酒がロカーレイを狂わせたんだ」と嘆いた。

 あの「トゥルカナのプロフェッサー」も酒量を減らしたのだと伝えられていれば、ロカーレイが自分の人生をしっかりと考える一つのきっかけになったかもしれない、ロカーレイはオータの「不良話」をよく楽しそうにしていたのだからなにか感じるところがあったにちがいない、そうなっていればいまこの場に彼も座っていたはずだ、などと、感傷的なだけでどこにも行きつく先のない話をしながら、その日はアブタ君と二人でビールをよく飲んだ。翌々日、アブタ君は牧野へ帰っていった。


(1) 太田さんの名誉のために記しておくと、当時の私のノートには村からオモラテに戻ってきたのは19時ごろだと記されているので、酒は日暮れ後に飲みはじめたはずである。